舞踏家 福士正一さん3

昨年11月に開催した「舞踏とあがた森魚のコラボレーション 左岸から右岸への漂流」の後、福士正一さんが参加者の方からの感想文を添えたメールを羊座に送って下さりました。

ご紹介したいと思います。

その日、広瀬川は不思議な舞台になった

―舞踏家・福士正一が刻んだ時空から―

あれは何だったのだろうか?あの日、私はいったい何を観たというのだろうか?

それは、晩秋のある日の、街が暮れなずんでゆくにはまだ少し間がある頃あいだった。鮮やかさを少し失った紅葉を写す広瀬川の川面を背景に、季節や時間や色彩の半端さを切り裂くような赤い衣に身を包んだボサボサ髪の一人の男が、河川敷の水打ち際で音もなく踊り始めた。能の所作のように少し前かがみが基本らしいその動きがスタートした直後のことだった。川上方面から真っ白な一羽の大きなサギが悠然と水面を滑降し、対岸の大きな岩の上に舞い降りて踊り手を凝視した。まるで「見慣れぬこの男は何者か?」と怪しむかのように。

情念や憤怒を表すかのような動きを彩っていた赤い衣はやがて脱ぎ捨てられ、黒い衣へ。それは迷い、悩みあるいは業や罪を背負って苦渋する姿に見えた。どこを見つめているのか判然としない視線。おろおろ歩いて何かを探しているような仕草だったり、うずくまったり、横たわったり、流木と絡んだり、時には水面を走り出したり。まるで何かから逃れるように、逃れられないかのように、そして抗うかのように・・・。なぜか急速に切なさがこみ上げてくる。

静寂。近くの橋を行き交う車の音は届いているはずなのに、不思議なことに耳には入らない。ここが都心部であることを忘れさせるほど、観る者の集中力が誘われる。

そして終盤。衣は白へと変わってゆく。赤と黒の烈しさを解脱あるいは超越し、浄化されてゆく心の境地を象徴するかのようなシーン。そこへギターを抱えた男が近づき、六弦を掻き鳴らしながら独特のしゃがれ声で唄い、踊りと一体しつつ安堵とも歓喜ともつかぬ最終盤の<再生>にたどり着く。すべてが終わり、いつもの慣らされた時間が戻ってきたことにハッとしたら切なさもいつしか消えていて、我に返ったのだった。

踊り手の名は、福士正一。青森を本拠地として活躍する現代舞踏家。本業はれっきとした公務員である。最近もNHK番組『熱中時間』などで登場しているから、名を知る方も多いだろう。ギター弾きは、『赤色エレジー』などで知られ映画監督としても活躍する異色のフォークシンガー、あがた森魚である。

実のところ、ダンスや舞踊系の身体表現にほとんど馴染んでいない私には、どのような展開となるのかも全く予想がつかず、理解の手がかりすらなかった。だから、自分と対話しながら手探りで何かを感じとるしかなくて、人が生きる姿と時間を凝縮したような幻影を、ただ自らと重ね合せてみるばかりだった。

だが、こうしてフシギな場所でのフシギな時間を経験してみて思う。超高層ビルが次々と立ち並ぶ近代的な街を流れ、人工的な都市空間のいわば対極としての自然界に属するはずの広瀬川が、彼らの表現行為によってとても人間くさい超都市的な異次元空間へと変貌したのだ。そこに自分が立ち会っていたという記憶は、容易に体内から消えない。

そのようにして、彼が踊った川原の一帯は、私にとってある種の神聖で特別な場所になったのである。(公務員 的場克己/仙台市)